がんずぎ という郷土菓子について

 

「がんずぎ」と「がんづぎ」の文字表記がある。

「がんずぎ」は漢字の「寒食・かんしょく」から起源。

 仏教で「寒食」を「かんじき」と読む。この読みが岩手の盛岡弁、南部藩言葉に訛って訛韻し「がんずぎ」

と発音されたもの。岩手以外の他県都市では「かんずき」「がんずき」と清音発音されている方が多い。

「がんづぎ」は漢字の「雁月」を菓子に当て字したもの。

 

寒食について。

 2000年前、古代中国「晋」時代、即位した「文公重耳」の忠臣「介子推」が母親と一緒に山に隠居して

いたのを復職のため召還するが、「介子推」が応じなかったので山に火を放ち、山から追い出そうとしたが、

「介子推」が焚死(焼死)したのを哀れみ、火を禁じ三日間を冷たい食事をした伝説から「寒食」といい、

冬至の翌日から105日目、春分の翌日から15日目にあたる「清明節」の前日と翌日の三日間を寒食とし

たもの。

 

寒食に関係した唐詩もかなりある。代表的な「三耕・・作者名」の漢詩を借詩する

 

三耕

寒食櫻英満 疾風甚雨多

参商不相見 望月黒雲遮

大訳 清明節の寒食する時期は、天候不安定で強風と雨で櫻の花も散りやすい。

      参商(オリオン座とサソリ座)は季節が正反対で、同時に天にあることはないから、見ることは出来な

   い。

 「参」は晋の地方の守護神であり、アンダレス(大火の神)と一緒に共にあることはないの例えから、

「介子推」が焚死(焼死)したのを哀れみ、火を禁じ三日間を冷たい食事をした伝説に結びつき「寒食」の

風習が起源したともいう説もある。

寒食という中国の風習が、1400年前欽明天皇の時代に朝鮮半島経由で仏教と共に日本に伝わった。

 日本に伝わった仏教は聖徳太子を巻き込む「仏教戦争」になり、聖徳太子派が勝利してから、聖徳太子が

本格的に仏教を布教する政策をする。

607年聖徳太子の法隆寺や788年最澄の延暦寺建立にともない、全国に天台寺を六寺建立のうち、五寺は当

時、政治の中心は京都であり関西方面に建立するも、遠く離れた陸奥の地、岩手の浄法寺郷(現、浄法寺町

が合併して二戸市)に天台寺が建立された特異性がある。これが今から大凡1300年も前の時代だ。

 これ以来岩手の地は仏教中心の生活が根付いてくる。南部藩公が八戸から盛岡に移住し、お城「不来方城」

を築いてから、初代から歴代の南部藩公も仏教政策を重要視する。したがって盛岡に寺院が80余寺近くも

ある全国有数の寺町に発展している。

中国の寒食行事も日本では仏教と結びつき、寒い東北地方の寺院、特に盛岡の寺院が中心になって、日本独

特の寒食行事になる。

 冬至の翌日から105日目、春分の翌日から15日目にあたる「清明節」の前日と翌日の三日間を寒食と

したもので、数日前から準備した食べ物を寺言葉で「かんじき」これが盛岡弁に訛って「がんずぎ」になる。

この食べ物の中に餅菓子でパンのようにスポンジ状のものがあったもので、特別に意識して作られたもので

はない。三角形になったものは仏教の「三徳」「三悪」「三角曼荼羅」に結びついてきたもので、いずれも発

祥は盛岡の寺院の寒食が起源のようです。

盛岡には三角形にした「かまやぎ」「おひゅうじ」「ずだもぢ」「ひしもぢ」という菓子が多くある。

「ひゅうじ」は死者の頭に付ける「頭陀」の盛岡弁です。

 

がんずき」菓子の味、色、形、寸法など特徴。盛岡の寺院や旧家に伝わる古文書などに記録が散見される。

 初期の「がんずぎ」の味はゴマをまぶした塩味。もち米など精米や精麦しない粉を使ったので黒っぽい色。

形は三角形です。寸法は6寸×6寸の正四角形を、対辺角から二等分した三角形です。三角形の頂点には仏

教の「三徳」「三悪」「三角曼荼羅」が宿ると言われている。

六という数字は、1間は6尺という建築寸法からです。寺院の建築する寸法は「弓・きゅう」という長さの単位でり、寺院の柱は「丸柱」で直径2尺や3尺と太いものを使う。

柱の中心から次の柱の中心まで相当の距離長さがあり、1間を6尺に寸法取りすると端数が出るため、

1間を6尺、6尺5寸、7尺4寸と便宜上この寸法が考案される。これが江戸間、京間という家屋建築の部

屋の広さの寸法に発展してくる。

             

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